2007年5月アーカイブ

第2部 金正日の女性遍歴の真相に迫る

第3章 「子供に恵まれなかった」と嘆いた独裁者

[第67回] 李韓永暗殺は金正男の父親に対する忠誠心の発露だった

 

崔銀姫に挨拶する金正日(上)

1978年1月14日、香港に滞在していた崔銀姫は香港在住の韓国人女性の李像姫に騙され、モーターボートで拉致された。沖合いで大型の貨物船に乗り換えて、8日目に北朝鮮の南浦港に到着した。香港から崔銀姫とともに同行したのは、党調査部の任浩君副部長と金周永副部長だった。1月22日午後3時、モーターボートで埠頭に上陸すると、金正日が現れ、「ようこそ、よくいらっしゃいました。崔先生、私が金正日です」と挨拶した(上掲写真)。下の写真は、崔銀姫(中央)を迎えに現われた党調査部の李完基〔李昌善〕部長(右)と姜海龍副部長(左)。3人の背後で、金正日(右)は任浩君副部長(左)から報告を聞いている。崔銀姫は「わたしは両脇の2人の男性の間にはさまって、約10分ほど海岸道路を歩いた。とても寒い日だった」と手記に書いている。崔銀姫の拉致工作を指揮した李昌善は、金日成・金正日・金正男の3代に仕えた対南工作の専門家である

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第3章 「子供に恵まれなかった」と嘆いた独裁者

[第66回] 韓国亡命を公表した8カ月後に暗殺されたロイヤル・ファミリーの李韓永

 

戸籍謄本などをもとに作成した系図

この系図は私が入手した戸籍謄本などをもとに、作成したものである。金正日の愛人だった成☆琳からみると、娘夫婦、姉と甥と姪の5人の「ロイヤル・ファミリー」が北朝鮮と決別し、各国に亡命している。この他にも「ロイヤル・ファミリー」の亡命者がいるが、後に紹介するつもりである(原図製作・惠谷治、デザイン・鍵本博子)

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第3章 「子供に恵まれなかった」と嘆いた独裁者

[第65回] 1994年1月に初めて金正男の名前が報じられた

 

成☆琳の実兄である成日耆(戸主)の戸籍謄本の一部

私が入手した成☆琳の実兄である成日耆(戸主)の戸籍謄本(上掲のコピーはその一部)によれば、本籍は慶尚南道昌寧郡大池面石里325番地となっており、前戸主である父親の成有慶の名前(右端)があった。成☆琳(左から2人目の名前)は成日耆の「妹」となっているが、成日耆と成☆琳の両親は「成有慶・張快任」となっていた。しかし、成☆琳の姉である成☆琅の名前はなく、この姉妹の実の母である金源珠は正妻ではなかったため、戸籍には名前が見当たらなかった。妹の成☆琳だけが父親の戸籍に入った事情は不明である

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第3章 「子供に恵まれなかった」と嘆いた独裁者

[第64回] 父親から手ほどきを受け少年時代から銃に馴染んでいた金正男

 

金正日はいずれかの銃を金正男に買い与えたと推定される

左上の写真は、『金日成回顧録』第2巻のグラビアに掲載された金日成の父、金亨稷が愛用したというベルギーのファブリック・ナシオナル・ド・アルムズ・ギレ社(FN社)製の「ブローニングM1900」の写真。右上は、銃器研究家の床井雅美氏の提供による口径7.65mm、7連発の「ブローニングM1900」の写真。左下は「FN-BDA9」(口径9mm、15連発)、右下は「FNハイパワーMK3」(口径9mm、14連発)で、金正日はいずれかを金正男に買い与えたと推定される(床井雅美著『最新ピストル図鑑』徳間文庫、1993年より転載)

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第3章 「子供に恵まれなかった」と嘆いた独裁者

[第63回] 官邸に女を連れ込んだ金正男に炭坑での強制労働を命令

 

在日朝鮮人芸術団のあいさつをうける金正日

1992年4月28日、金正日は訪朝した在日朝鮮人芸術団による公演を観覧した。1995年2月に朝鮮総連が発行した『金正日将軍』という写真集には、「在日朝鮮人芸術団のあいさつをうけ」というだけのキャプションが付いた上掲の写真が紹介されている。『月刊朝鮮』(05年4月号)が報じた「エミコ」という金正日の四女がいるのが事実だとすれば、このときに訪朝した芸術団のなかに「エミコ母娘」がいても不思議ではない

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第3章 「子供に恵まれなかった」と嘆いた独裁者

[第62回] 再びジュネーヴに移り、美術学校に入学した金正男

 

モスクワの昼と夜

金正男は1982年9月の新学期からモスクワのフランス大使館附設学校に通うようになったが、私はその1カ月後の82年10月28日に日本を出て、シベリア鉄道でモスクワまで一週間かけて旅をした。11月7日の革命記念日の軍事パレードを取材したが、その3日後にブレジネフ書記長が急死したことを現地で聞いた。この年はソ連に5週間滞在し、翌83年も再度、軍事パレードを取材したが、当時のソ連では革命記念日に結婚式をするカップルが多く、赤の広場には数多くの純白のドレスを来た花嫁たちがいた。上掲の写真は1983年11月7日の"革命の首都"モスクワの昼と夜の表情である(著者撮影)

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第3章 「子供に恵まれなかった」と嘆いた独裁者

[第61回] 高英姫が産んだ3人の子供たち

 

高英姫

左の写真は、1973年8月、万寿台芸術団の一員のひとりとして「柳日淑」の変名で来日し高英姫が、公演を終えて新潟から初代「万景峰号」(1971~79年就航)で帰国する際に見送られている場面(写真提供 聯合=共同)。右は歌劇『祖国のつつじ』で主役を演じる高英姫。身長163cmでスレンダーだった高英姫にとって、『祖国のつつじ』という演目は代表作のひとつだった

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第3章 「子供に恵まれなかった」と嘆いた独裁者

[第60回] 韓国の監視を逃れてジュネーヴからモスクワに転校した金正男

 

金正男が通っていた「ラ・グランド・ボアシエール本校」

金正男が通っていた「エコール・アンテルナショナル・ドゥ・ジュネーヴ(ジュネーヴ国際学校)」は、現在、ラ・グランド・ボアシエール、ラ・シャテーニュレ、カンピュス・デ・ナシオンの3カ所に校舎がある。金正男が通っていたのは、ジュネーヴ市シェーン通り62番地にある「ラ・グランド・ボアシエール本校」だったと推定される。上掲の写真は、ジュネーヴ国際学校のホームページ(Ecole Internationale de Geneve - Home)より転載したラ・グランド・ボアシエール本校の校舎とキャンパス

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第3章 「子供に恵まれなかった」と嘆いた独裁者

[第59回] ジュネーヴ国際学校に入学した金正男

 

3、4歳当時の軍服姿の金正男(左)と従兄妹と記念撮影する7歳の金正男

左の写真は、祖母である金源珠に抱かれている3、4歳当時の軍服姿の金正男。当時、金正男は副官たちから、「大将同志」と呼ばれていた。この時点では、すでに母親は発病して、モスクワでの療養を繰り返しており、金正男は祖母の手で育てられた。右は、1979年2月16日、金正日が38歳(公式には37歳)になる誕生パーティの席で、従兄の李一男(当時18歳)と従姉の李南玉(当時13歳)とともに記念撮影に収まる7歳の金正男。金正日の誕生パーティに、クリスマスのようなツリーが飾られているのが興味深い

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第3章 「子供に恵まれなかった」と嘆いた独裁者

[第58回] 金正日の身辺警護にあたっている娘の金雪松の存在

 

人民軍創建60周年の閲兵式の壇上にいる金正日

左上は1984年5月15日、金正日が咸鏡北道金策市の城津製鋼連合企業所を視察した際の写真だが、金正日の右にいる延亨黙党書記(当時)の背後に制服姿の警護員が立っている。制服の左腕には、警護員を表わす肩章がついている(左下写真参照)。右は1988年8月30日、祥原セメント連合企業所の労働者住宅を視察中の金正日だが、背後には左の写真と同じ警護員が私服姿で立っている。右下は1992年4月25日の人民軍創建60周年の閲兵式の壇上にいる金正日だが、背後にいる右端と2番目(3枚の写真と同一人物)、1人(金容淳)をおいて、金正日の首の右後ろ(顔が半分隠れている)の人物、そして、金正日の顔の左側の人物も警護員であり、金正日は私服の警護員に囲まれて登壇していたのである

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