独裁者の秘密を徹底検証 ドキュメンタリー金正日 第3部の最近のブログ記事

第3部 独裁者・金正日権力の源泉

第1章 党の謀略機関を掌握し拉致工作を定式化

[第112回] 離婚後は重要な秘密機関に送られたと推測されるめぐみさん

 

日本革命村

「よど号」ハイジャック犯の1人である柴田泰弘氏と結婚した八尾恵氏は、2002年に手記『謝罪します』を刊行した。その著書のなかで、「日本革命村」について、次のように書いている。「私が住むことになった日本革命村は、平壌から北東に約20キロ離れた三石区域元新里で、丁度北から流れてきた大同江が西に向かって蛇行する丘陵地の林の中に作られていました。<略>住んでいたアパートは、白い外壁の5階建てで、1つの階に1世帯だけがありました。アパートは2棟あり、両方とも同じ作りでした。2棟のアパートはそれぞれ低いブロック塀で囲まれ、砂場・滑り台・ブランコのある小さな遊び場を挟んで並んで建っていました。<略>アパート裏側の緩やかな丘は草むらで、雄大な大同江の流れが見えました」。そして、著書には、上のスケッチ・マップが掲載されていた。私はスケッチ・マップと記述情報をもとに、該当する地点をグーグルアースの衛星写真で慎重に探したが、なかなか一致する場所が見つからなかった。というのも、スケッチは1985年ごろの情報に対し、衛星写真は2004年3月7日に撮影されたもので、20年間の隔たりがあったからである。私は大同江に沿って川岸をすべて点検し、ようやく下の衛星写真の地点であることを確認した。現在はハイジャック犯たちは住んでいないと思われるが、1985年当時よりも建物が大幅に増えているようで、貯水池の1つは消滅している。また、周辺で2カ所の対空陣地を発見したが、「日本革命村」を防御するためのものだったのか、その後に重要施設となって配置されたものかの情報はない。「よど号」に拉致された被害者が、「日本革命村」に住んでいたのかどうかも、残念ながら不明である

第3部 独裁者・金正日権力の源泉

第1章 党の謀略機関を掌握し拉致工作を定式化

[第111回] 韓国人拉致被害者と結婚し娘をもうけた横田めぐみさん

 

横田めぐみさん、夫の金英男氏、長女ウンギョンちゃん

右下の1枚を除いて、4枚の写真は横田めぐみさんの夫の金英男氏が提供したものである。金英男氏は2006年6月30日に、平壌での記者会見をおこなったが、その場には写真を持参せず、めぐみさんが写っている上と中段左の2枚を、1週間後の7月6日、訪朝中の日本人記者団との会見の際に公開した。上は、1986年8月13日にめぐみさんと金英男氏が結婚したときの記念写真である。背景は平壌市内にある凱旋門であるが、腕を組む2人と合成した写真である可能性もある。金英男氏によれば、めぐみさんは写真の裏に、「新たな出発を記念して」と書いたという。中段左は、めぐみさんの長女ウンギョンちゃんの1歳の誕生日の記念写真ということなので、1988年9月13日に撮影されたと推定される。中段右と下段左は、韓国にすむ金英男氏の家族が公開したもので、中段右はウンギョンちゃんが6歳頃(1993年頃)の写真という。めぐみさんは1994年に離婚したといわれ、金英男氏は公開した2枚しか、めぐみさんの写真は持っていないと語っている。下段左はウンギョンちゃんが金英男氏に連れられて、白頭山山腹にある金正日が生まれたとされる密営を訪れた際のスナップ。下段右は、金正日誕生の密営といわれ、背後にそびえる山の岩壁には「正日峰」の文字がはめこまれており、北朝鮮では最大の聖地となっている(筆者が1991年8月に撮影)。金正日は本連載第1部で詳述したように、旧ソ連のヴォロシロフで生まれたのであり、この密営は1986年に聖地として捏造建設されたものである

第3部 独裁者・金正日権力の源泉

第1章 党の謀略機関を掌握し拉致工作を定式化

[第110回] 曽我さんと別れたのちに田口八重子さんと同居していためぐみさん

 

北朝鮮が提出した横田めぐみさんの写真

左上は、2004年5月に北朝鮮が提出した横田めぐみさんの3枚の写真のうちの1枚であるが、撮影年月や場所は不明である。右上と下は、「サピオ」誌(2006年6月14日号)に掲載した筆者が作成した地図で、1977年11月にめぐみさんが拉致されて以降の足跡である。拉致されためぐみさんは清津に上陸し、平壌に連れて来られてから後は、平壌市牡丹区域興富洞にある興富招待所(A)に滞在していたと推定され、1978年8月に曽我ひとみさんがめぐみさんと初めて会ったのは興富招待所と思われる。その後、招待所を点々とし、1980年6月に曽我さんと最終的に別れてから、1984年9月に平壌から南東約20キロの中和郡忠龍里にある工作員村(B)に田口八重子さんと入居するまでの、めぐみさんの動向は不明である。その間(1982年)、695病院に入院していた可能性が考えられる。1986年8月に結婚しためぐみさんは、その年の暮れに平壌市順安区域大陽洞(C)に転居した。金正日政治軍事大学に近い大陽洞には、蓮池夫妻も地村夫妻も住んでおり、全員が大学の教官をしていたと考えられるが、安明進氏は地村夫妻を目撃していない。日本人教官の「組長」だった市川修一さんと妻のるみ子も、大陽洞に住んでいたのではないかと思われるが、今のところ情報はない

第3部 独裁者・金正日権力の源泉

第1章 党の謀略機関を掌握し拉致工作を定式化

[第109回] 平壌で一時期共同生活をしていためぐみさんと曽我さん

 

金正日政治軍事大学

写真は、グーグルアースの衛星写真で見る金正日政治軍事大学の全景で、小泉首相が訪朝した際に車で往復した道路が左側にある。2004年5月、北朝鮮が日本側に提出した3枚の横田めぐみさんの写真のうち1枚(ピンクで囲んだ写真)は、大学構内にある出版社近くの駐車場で撮影されたものであることが、安明進証言によって判明している。安明進氏は大学内でめぐみさんを見たときの状況を私に話してくれたが、同じ話が手記に書かれている。「ある日、昼食を終えて食堂〔学生用〕を出てきた私たちは、数人でかたまってタバコをふかしながらしゃべっていたが、ふと見ると、教官たちが通っていた小高い道を彼女〔めぐみさん〕と他の日本人女性〔加藤久美子さん〕が歩いていた。彼女たちは一緒に食堂〔教官用〕にやって来るところだった。本校ではあまり女性と接する機会がないので、学生たちは彼女たちに声をかけたがっていた。<略>同級生の1人が何か挨拶をしたかったのか、いきなり『コンバンハ、食事をおいしく召し上がってください』と大声で言った。昼食時間なのに『コンバンハ』と言った彼に、私たちは声をあげて笑い転げた。<略>私たちに知らんぷりしようとしていた彼女たちも、彼の『コンバンハ』という挨拶には驚いたようだった」(『北朝鮮拉致工作員』147頁)

第3部 独裁者・金正日権力の源泉

第1章 党の謀略機関を掌握し拉致工作を定式化

[第108回] 北朝鮮の説明から読み取る日本人拉致被害者の所属機関

 

市川修一さんと増元るみ子さん

1978年8月12日、佐渡で曽我母娘が拉致された日、鹿児島市の電電公社(現NTT)職員だった市川修一さん(当時23歳)と事務員だった増元るみ子さん(当時24歳)が鹿児島県日置郡(現・日置市)吹上町の吹上浜から拉致された。その日の夕方、2人は「夕陽を見に行く」と言って、車で吹上浜のキャンプ場に行ったのだった。車はロックされたままの状態で発見され、助手席には増元さんの手提げバックやカメラが残され、車内はまったく荒らされた形跡がなかった。残されていたカメラのフィルムを現像してみると、薩摩湖でデートした際に互いに撮りあった写真があった。それが上段の2枚である。中段は、泳げなかった市川さんが真夏を過ぎた「1979年9月4日に海水浴中に心臓麻痺で急死」ということにされている北朝鮮の江原道元山市の海水浴場の全景である(筆者が1987年10月に撮影)。日本海に面する元山市の海水浴場は、正確には「松濤園海水浴場」と呼ばれ、特権階級や外国人、選ばれた労働者しか利用することができない。近くには、松林に囲まれた「松濤園遊園地」もある。下段は、1991年8月に筆者が撮影した真夏の松濤園海水浴場である

第3部 独裁者・金正日権力の源泉

第1章 党の謀略機関を掌握し拉致工作を定式化

[第107回] 横田めぐみさん以前に日本人拉致はなかったとする金正日

 

拉致被害者

上段左2枚は、1977年10月21日に拉致された鳥取県米子市の会社員だった松本京子さん(当時29歳)。去る10月中旬(2008年)、中朝貿易関係者から人を介して、「イナちゃんによろしく」という伝言が特定失踪者問題調査会に届けられ、本人しか知り得ない秘密の暴露だったことから、松本さんは今なお健在であることが確認された。上段右2枚は、神戸のラーメン店「来大」の店員だった田中実さん(当時29歳)。ラーメン店の経営者の韓龍大に騙されて、1978年6月6日、田中さん成田からウィーンに出国し、その後に北朝鮮に拉致された。中段左2枚は、1973年7月7日に千葉県で失踪した古川了子さん(当時18歳)。古川さんについては本連載第95回参照。また、加藤久美子さんについては本連載第88回参照(写真は第90回で紹介)のこと。中段右2枚は、1975年4月4日に失踪した萩本喜彦さん(当時35歳)。萩本さんについては本連載第101回参照。下段3枚のうち、左端は1976年2月7日に失踪した東京学芸大学教育学部1年生だった藤田進さん(当時19歳)。藤田さんは、失踪当日の午後6時半ごろ、以前から話をしていた新宿のガードマンのアルバイトに行くといって、埼玉県川口市の自宅を出たまま失踪した。後に新宿にある全ての警備会社に電話で問い合わせたが、該当者はいなかったという。2001年に中国に脱出した脱北者が、2003年に他の脱北者に渡していた写真を、TBSが入手し、2004年8月1日の『報道特集』で紹介したのが、中央の白いシャツ姿の写真。さらに別の写真(右の背広姿)を日本テレビが入手し、2日後の8月3日の『ザ・ワイド』で放映した。鑑定の結果、2枚の写真の人物は、藤田進さんである可能性が極めて高いことが判明した

第3部 独裁者・金正日権力の源泉

第1章 党の謀略機関を掌握し拉致工作を定式化

[第106回] 曽我さん親子を拉致した女工作員の弟は有名なバイオリニスト

 

上段:曽我ひとみさんと母親のミヨシさん、下段左:「金ミョンスク」の似顔絵、下段右:金ソンホ

上段は、1978年8月12日に拉致された当時の曽我ひとみさん(19歳)と母親のミヨシさん(46歳)。中段左は、新潟県警が公開した曽我母娘拉致実行犯のひとりである「金ミョンスク」の似顔絵。中段右は、「金ミョンスク」の弟で、1978年のチャイコフスキー国際コンクールのバイオリン部門で4位に入賞した「金ソンホ」である。

 

第3部 独裁者・金正日権力の源泉

第1章 党の謀略機関を掌握し拉致工作を定式化

[第105回] 帰国して子供たちと再会した後も口を開かない拉致被害者たち

 

上段:蓮池薫さんと奥土祐木子さん、下段:「最上屋」の室内

上段は、1978年7月31日に拉致された当時の蓮池薫さん(20歳)と奥土祐木子さん(22歳)のスナップ写真。下段は、当日2人が待ち合わせした「最上屋」の2階のパーラーの当時の室内。この貴重な写真は、私が独自入手したものである。

 

第3部 独裁者・金正日権力の源泉

第1章 党の謀略機関を掌握し拉致工作を定式化

[第104回] 小泉首相に「特殊機関の一部が恣意的に拉致した」と答えた金正日

 

北朝鮮が日本に提出した日本人拉致被害者の「死亡確認書」のコピー

8枚の書類は、北朝鮮が2002年に日本外務省の「拉致問題に関する事実調査チーム」に提出した日本人拉致被害者の「死亡確認書」のコピーである。上段左は、横田めぐみさんのもので、死亡年月日は「1993年3月13日」となっているが、北朝鮮は2004年に、「1994年4月13日」だったと訂正した。上段右は、田口八重子さん(1986年7月30日)、中段左から、原敕晁さん(1986年7月19日)、市川修一さん(1979年9月4日)、増元るみ子さん(1981年8月17日)、下段左から、有本恵子さん(1988年11月4日)、石岡亨さん(1988年11月4日)、松木薫さん(1996年8月23日)の「死亡確認書」である。市川さんと松木さんの死亡年は17年もの隔たりがあるにもかかわらず、めぐみさんの「49号予防院」発行のものを除けば一目瞭然のように、円形のスタンプと「第695号病院」のスタンプの位置は同じであり、1枚の書類をコピーして急いで書き込み捏造したことは明らかで、証拠にもならない文書である。ちなみに、「第695号病院」は金正日政治軍事大学の診療所であることを、初めて指摘したのは筆者であり、その事実は後に確認された。金正日政治軍事大学の秘匿名が「第695軍部隊」だったことから、気付いたのだった

 

第3部 独裁者・金正日権力の源泉

第1章 党の謀略機関を掌握し拉致工作を定式化

[第103回] すべての活動は金正日の「唯一指導体系」に対する忠誠心競争

 

2枚の写真は自信に満ちた33歳(実際には34歳)の金正日

2枚の写真は、金正日の初めての写真集である『我らの領導者』から転載したものであるが、「唯一後継者」に指名された後、対南工作機関に対する大検閲を始めた頃の自信に満ちた33歳(実際には34歳)金正日の姿である。上は、「1975年7月2日、〔咸鏡南道〕咸興市の建設模型を見ながら、近代工業都市としての咸興の展望を示す偉大な指導者金正日同志」という説明になっている。下の日付は1975年10月3日になっているが、金正日は1975年10月13日に、咸鏡北道穏城郡にある旺載山革命史跡地の建設現場を3度目の視察をおこなっており、日付の3日は13日の誤植と考えられる

 

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